|
楼楼出来咯~~
偶怎么就比较在意 平 滋子跟後白河天皇哎
平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/07/post-8bee.html
滋子作为时子的妹妹,本来就在宫里当女御,女官那类(吧),时子察觉到自己丈夫清盛微妙的立场以后,
就想学当年藤原家的那样把自己身边的人嫁入宫廷会比较有利(事实证明也的确如此)
结果滋子 喝酒豪放的直爽模样反倒吸引了後白河天皇,后来深受宠爱,嫁给他第二年就生了儿子憲仁
後白河上皇=35歳、滋子=20歳の時でした。
往后的岁月里滋子也一直充当了姐夫跟丈夫的润滑剂“彼女という存在が潤滑油となって、良い関係が保たれていた”,後白河天皇即使有许多女人,但对她依然情有独钟“とは言え、この後白河上皇・・・帝王の常として、これまで、かなりの女遍歴の持ち主で、そのぶん子供も沢山。”“そんな恋多き後白河上皇の心を、ここに来て見事に射止めたのが滋子だったわけです。”滋子,更像是统领法皇后宫的女王“滋子は、まさに、法皇後宮の女王として君臨していたのです。”
所以:
後白河の滋子への寵愛か、法皇对滋子的宠爱
清盛の巧みな政治手腕か、加之清盛巧妙的政治手段
それとも、両者の持ちつ持たれつか・・・总之,在二人之间维持了一个微妙的平衡
とにかく、両者は絶妙なバランスのもと、全盛の時代を築きあげて行くのです。
さらに、後白河&清盛の強力タッグは、翌・仁安三年(1168年)には、わずか5歳の六条天皇を退位させて、これまた、わずか7歳の憲仁親王を、第80代高倉天皇に・・・
在两个男人的强力联手下,年仅5岁的六条天皇退位,他们把7岁的憲仁親王登上了那个位子,成为第80代高仓天皇
それに、翌年には、天皇の生母として建春門院(けんしゅんもんいん)の院号を賜った滋子と、同時期に上皇から落飾して後白河法皇となった二人のラブラブ感は未だ消えず、やれ熊野だ、やれ有馬だ、やれ厳島だとペア旅行三昧の日々・・・滋子は、まさに、法皇後宮の女王として君臨していたのです。
第二年,滋子跟后白河法皇二人的感情依旧未变,跑去各地旅行了……
这段时期,也就是1168年生了场重病的平清盛深感若是有一天自己翘辫子了光是靠滋子身为天皇的生母也无法维持平家的权势与荣耀“もし、万が一、自分が死ぬような事になったら・・・滋子が天皇の生母というだけでは、平家の権勢は維持できない”
于是1171年,他把自己15岁的女儿德子嫁给了11岁的高仓天皇
谁知1176年,後白河法皇50歳の誕生日パーティの後に、まやもや出掛けた法皇との有馬へのラブラブ旅行から帰った6月8日、滋子は、突然の病に倒れます。从外面旅游归来后,滋子突然病倒了……病名は二禁(にきみ・腫れ物)だったという事ですが、その月の23日には、もはや息子の高倉天皇のお見舞いも断わらねばならないほど悪化・・・もちろん、後白河法皇もつきについて看病しますが、その甲斐もなく・・・
安元二年(1176年)7月8日、未だ35歳という若さで、滋子は帰らぬ人となってしまいました。 35岁就甍了
彼女の死は、これまで見事な強力タッグを組んでいた後白河法皇と清盛の関係に微妙な影を落とす事になります。
她的过世显示出 截止目前为止,其本身强而有力的存在,给俩男人之间的关系添上了漂亮的一笔色彩,对他们产生了微妙的影响
一年以后,法皇跟清盛之间白热化“あの鹿ヶ谷の陰謀,が発覚し、法皇と清盛の関係の悪化が表面化するのは、滋子の死から、わずか1年後の事でした。”
[ 本帖最后由 DesertRose 于 2011-8-18 18:18 编辑 ] |
|