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楼主: 变频空调猫

08'NHK大河剧《篤姫》集中讨论贴!宮崎あおい

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 楼主| 发表于 2007-12-25 23:40 | 显示全部楼层
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发表于 2007-12-25 23:50 | 显示全部楼层
最近貓有點狂搖人症...
大河把人都搞瘋了...

不過這個cast太多interesting演員...
就看故事能不能top the cast~
ARASHI 5x20

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 楼主| 发表于 2007-12-26 00:05 | 显示全部楼层

回复 #43 summerlem 的帖子

谁叫不摇你,你不看来着~~~

=======================================

我再贴,PPX制作的笃姬三分钟预告片~一楼也贴了。

http://www.tudou.com/v/mSsvCJb6jBQ
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 楼主| 发表于 2007-12-26 00:16 | 显示全部楼层
有关笃姬的鹿儿岛拍摄的相关情报
当然这个是早就结束的了
aoi和某人拍摄的时候鹿儿岛的气温是三十度
相当辛苦却还要露出轻松的神态

下面都是自己翻译的,大概意思。


                               
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大河《笃姬》 鹿儿岛外景拍摄开始

       将于2008年播放的NHK大河连续剧《笃姬》的鹿儿岛外景拍摄于本于28日,在鹿儿岛市的矶山公园开始进行。担任主演的宫崎葵小姐,扮演小松带刀一角的瑛太先生等主要角色进行了摄影。
     电视剧主要描写自鹿儿岛的岛津家的分家出嫁到德川家,从幕府的末期开始至明治时代的骚乱时期坚强地生存着的笃姬的身姿。在总共50集的剧集里面,第1回至第12回详细的描述了笃姬的萨摩时代中,会到处加进鹿儿岛当地的美丽风景。
     在外景拍摄强烈的日晒中,宫崎葵小姐扮演的於一(笃姬)对瑛太先生扮演的肝付尚五郎(小松带刀)叙说梦的景色等被收录了。宫崎葵小姐说:“鹿儿岛真是个好地方。在看电视剧的时候如果有想去的地方就去一下好了”,瑛太先生说“能从樱岛的空气里得到力量。”
     同时,鹿儿岛市的森博幸市长前去摄影现场访问了。他激励各位演出者,说“请努力”,另外还向他们赠送了鹿儿岛县的特产。

原文:http://www.373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=6840


    明年NHK大河连续剧《笃姬》的鹿儿岛的外景拍摄于9月28日,在可以遥望樱岛的鹿儿岛市的矶山公园开始。主角笃姬的少女时代“於一”的扮演者宫崎葵(21)和扮演其青梅竹马的肝付尚五郎的瑛太(24)参加了此次拍摄。今年6月演员高冈苍甫(25)闪电结婚的宫崎小姐,表示“比以前容易扮演家族成员了”。史上最年少担任大河剧女主人公这一重大使命的她不管是公众还是私下都闪烁着应有的光芒。
  这天的拍摄收录了,15岁的於一同青梅竹马的尚五郎一同走在能看见樱岛的道路,一边畅想着萨摩的未来的充满希望的景色。无论做什么事都很积极的於一鼓励尚五郎,尚五郎对於一抱有好感,清爽的景色,毫无防备的展露着笑容富有魅力。
  2006年的晨间连续剧《纯情闪耀》的女主人公樱子带来强烈的印象之后相隔一年,《笃姬》的制片人佐野元彦先生说“20岁过后的她的成长实在太出人意料了。表演中她把各种各样的工作和相遇的经验都渗透进去了”。

 ◆「笃姬」在萨摩藩岛津家的分家出生,后成为江户幕府的第13代将军德川家定的正室。一方面看起来好象是灰姑娘一样,但身体虚弱的家定,在她出嫁1年半后即死去。此后她被卷进围绕幕府接班人的幕府内部的明争暗斗,而她的故乡萨摩藩又成为了打倒幕府派的中心,在这动荡的时代中,展现着面向前方坚强的生活的女主人公的命运。

http://www.tokyo-np.co.jp/tochu/ ... 07092902052499.html



                               
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大河《笃姬》 宫崎葵、瑛太的鹿儿岛县厅拜访

      预定2008年放映的NHK大河剧《笃姬》的主要演员,扮演笃姬的宫崎葵小姐和扮演小松带刀的瑛太先生等人日前在鹿儿岛县内取景,27日两人前往拜访了鹿儿岛县厅的知事伊藤祐一郎先生。
      宫崎葵说:“鹿儿岛遍地绿色,单是眺望就感到心情平和。”瑛太则表示:“从机场开始一直都能看到樱岛的好景色,能精力充沛的演小松了!”伊藤知事也笑着说:“鹿儿岛作为大河剧舞台以来已有18年的历史,期待着今后能有更多的游客到来。”
      《笃姬》外景于28日开始至10月6号在鹿儿岛市、指宿市、出水市、加治木町进行拍摄。

来源:
http://www.373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=6836

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/kagoshima/20070928/20070928_002.shtml


以下是地方电视台的访问节目:






宫崎:鹿児岛は二回目、前より桜岛を大きく感じた。前回も笃姫络みで笃姫の父の墓参りなど。  
          第2次来鹿儿岛,比起之前觉得樱岛大了很多。上次也代笃姬拜了笃姬父亲的墓。

瑛太:父が鹿児岛出身、祖父母も鹿児岛に住んでいて、今回の役を喜んでいる。
          父亲出身于鹿儿岛,祖父母也一直住在鹿儿岛,所以对扮演这次的角色感到非常高兴。

宫崎:笃姫は子供のころやんちゃでいろんなところにでていく。実在の人物だが、自分とあまり重ね合わせることは无い。  
          笃姬从小开始就在很多地方奔波,虽然是实在的人物,但和自己基本上没什么重叠的地方。

瑛太:小松は诚実な人。人间らしく描かれていて少しドジなところもある。  
          小松是诚实的人。被人们所描述也多少有不细心的地方。

宫崎:暑さが大変。かつらや衣装が大変だががんばります。
          天气太热了。虽然戴假发和穿和服都够受的,但我会加油的。
  
瑛太:好きな焼酎を饮过ぎて颜がむくまないようにします。
          喝了太多喜欢的烧酒,担心脸会浮肿起来……

宫崎:鹿児岛弁のシーンはほとんどない。明日から10日间のロケがんばります。
          基本上没有鹿儿岛方言的段子。从明天开始的10日外景拍摄要加油。

瑛太:鹿児岛弁(のシーン)は无い。今までの大河ドラマのテイストとは违うのでお楽しみに。
           鹿儿岛方言没有哦。因为与至今为止的大河剧的味道不一样,请各位期待!
♪ 瑛太くん、絢斗くん、優ちゃん一生懸命 ♪(# ̄▽ ̄#)

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发表于 2007-12-26 10:43 | 显示全部楼层
追是要追的,不过要到什么时候才能看到翔太啊
竟然演家茂,那不知道要好后面了
今天大河我都烂尾了,发现大河太容易烂尾了
要不我就等到翔太和小玉出来再看好了XDD
不用追几集就OK了

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 楼主| 发表于 2007-12-26 11:07 | 显示全部楼层
鹿儿岛官网的笃姬列传,写的很详细。
不过全日文的话,可能有些朋友就不是很能理解。

第1回 ―篤姫の生涯について―

<鹿児島での娘時代>
篤姫は、江戸幕府第13代将軍徳川家定の御台所(みだいどころ)(正室)、幕末維新の激動期、徳川家存続の最大の功労者であり、江戸と明治という2つの時代を生きた薩摩おごじょである。
篤姫は、天保6年(1835年)12月19日、鹿児島城下の今和泉家第5代忠剛(ただたけ)の長女として生まれた。今和泉家は、島津家の御一門(ごいちもん)の一つ。将軍家でいえば、御三家にあたる。母お幸(ゆき)の方も島津家の一族である。
篤姫は、藩主島津斉彬の養女となってからの名前で、はじめは一子(かつこ)と称した。(1番目の娘だったからである。)
安政3年(1856年)京都の貴族、近衛忠煕(このえただひろ)の養女となり、篤姫君と称され、諱(いみな)を敬子(すみこ)とし、同年12月近衛家から将軍家へ輿入(こしい)れした。
(外様の島津家から直接徳川将軍家に嫁ぐことは、家格の違いからできないので、近衛家の養女となったのである。)
一子は、小さいころから、明るく元気で利発な子であった。島津の名門だけに、将来は藩内の上級家臣か近隣の小大名の家に嫁ぎ、ごく普通の武家奥方として生涯を送るはずであった。
ところが、時代は一子を悲劇のファースト・レディに変えてしまう。事の発端は、幕府から持ち上がった。嘉永3年(1850年)、島津家に御台所(みだいどころ)の候補が求められたのである。
時の将軍家定は、鷹司家と一条家からの御台所に共に先立たれていた。病をもち、言葉も明瞭でない家定に後継ぎは期待できないが、大奥には、将軍家を支えられるようなしっかりした夫人を迎える必要があった。
また、第11代将軍家斉(いえなり)の御台所は、第25代藩主島津重豪(しげひで)の娘の茂姫(しげひめ)であった。11代将軍のとき徳川家の子孫が繁栄(55人の子)したので、その前例にあやかろうとしたのであろう。
幕府から打診のあった翌嘉永4年(1851年)、島津斉彬が第28代藩主となった。島津家では、一子のほかに、斉彬の異母弟久光(ひさみつ)の娘のお哲(12歳)などがいたが、斉彬は一子を選んだ。「周防(すおう)娘(久光娘)よりは渓山(第26代斉宣(なりのぶ))末子安芸(あき)娘(忠剛娘)16歳にて相応の様子のものに御座候」と言っている。斉彬は家督争いで対立候補であった久光の娘が御台所につくのは好ましくないと考えたのかもしれないが、やはり一子を「忍耐力があり、人に接するのがたくみである」と評価したからであろう。(一子を推す家臣もあったようである。)
ではなぜ、斉彬が一子の性格を知ることができたのか、宮尾登美子先生の原作では触れられていないが、実は、一子の父忠剛(ただたけ)と斉彬は江戸の高輪(たかなわ)藩邸で11年間ともに青少年時代を過ごした知己であった。一子なら、父忠剛から江戸の話を聞いているであろうし、御台所候補になったら、父が教育してくれると考えたのであろう。ちなみに、島津久光は文久2年(1862年)にはじめて上洛するまで、鹿児島を離れたことがなかった。

<江戸への旅立ち>
嘉永6年3月1日、斉彬は篤姫と父子の固めの式を行ない、幕府にはその指示により実子として届けた。(19歳)鶴丸城で3か月近く御台所にふさわしい教育と行儀作法を身につけるための厳しい訓練を受け、同年8月21日鹿児島を出立した。二度と帰れぬ旅立ちであった。
江戸への行程は約440里(約1700キロ)、2か月の旅である。10月2日、近衛邸に参殿、京・宇治を見物した後、同月6日伏見を発ち、23日江戸に到着、上屋敷の芝(しば)藩邸(現東京都港区)に入った。
同年6月初旬にはペリーが浦賀に来航すると予測していた斉彬は、5月に東海道の通行が難しければ木曽路を通るように指示していたが、やはり東海道が選ばれた。東海道を見たいという篤姫の意向があったのかもしれない。
篤姫は江戸に入ったものの、入奥の段取りは遅々(ちち)として進まなかった。翌嘉永7年はペリーが再来したため、安らかな政事を祈念して安政と改元された。この年は皇居が炎上、翌安政2年は江戸で大地震が発生し(芝邸倒壊)、世情騒然としていたために婚礼は遅れた。
しかし、遅れた理由はもっと深い所にあった。すなわちこの婚礼が、将軍継嗣問題を有利に進めようとする、いわゆる一橋派の政略結婚という様相をにわかに帯びてきたのである。

<政治問題化した輿入れ>
ペリーの開国要求にたいし、老中首座阿部正弘は、全国の有力諸侯・諸司に意見を求めるという異例の措置をとった。あくまで攘夷(じょうい)か、それとも通商を認めるか、国論は2つに分かれた。
もはや国論をまとめるには朝廷の権威すなわち勅許(ちょっきょ)を求める以外にない。また、外圧という危機に対応するには、現将軍(家定)では覚束(おぼつか)ない。次期将軍には、外交手腕も含めて、英明な人物が期待された。
水戸徳川斉昭(なりあき)の子である一橋慶喜(よしのぶ)を次期将軍に推す阿部正弘ら一橋派と、将軍家への血筋の濃い紀伊徳川慶福(よしとみ)を推す井伊直弼(なおすけ)ら南紀派が対立した。
こうしたなかで、誰が将軍家定の御台所になるかも政局を動かす重要な要素として、にわかに注目されるようになった。
質実剛健を旨とする徳川斉昭は、もともと大奥に嫌われており、大奥の意見を代表する家定生母の本寿院も、慶福ひいきであった。この一橋派に不利な状況を打開するためには、篤姫が家定に嫁ぎ、本寿院の意向を動かさなければならない。阿部正弘と島津斉彬の意見は一致した。
嘉永7年(1854年)3月3日、幕府は神奈川条約(日米和親条約)を結んだ。この条約に基づき、安政3年(1856年)7月、アメリカのハリス総領事が着任し、通商条約の締結を強く迫った。
これより先の2月、阿部老中から婚礼の許可が達せられ、11月、篤姫は渋谷の下屋敷から江戸城(大奥)へ入った。
渋谷の下屋敷は、海に近い芝の上屋敷が外国からの攻撃にさらされる危険があるため、斉彬が新規に購入したもので、篤姫はじめ女中衆は、安政2年12月に移居していた。
徳川斉昭は、外様の島津氏を警戒していたから、必ずしも篤姫入輿に賛成ではなかったが、実子の慶喜を推す立場から、4月15日になって承諾の意を斉彬に伝えている。
もちろん斉彬は、将軍継嗣に慶喜を立てることが天下国家のためであることを篤姫に言い含めていた。
斉彬との連絡は、島津家から近衛忠煕(このえただひろ)に嫁いでいた斉彬の妹の郁姫付きの老女であった幾島が篤姫付きになっていたので、幾島と島津家奥の責任者である小の島との間でとらせることになっていた。
安政3年11月19日に結納、12月18日に婚礼が行われた。(家定33歳、篤姫21歳。)
篤姫の婚礼調度品は、徳川家の葵の紋と近衛家の牡丹の紋をあしらった豪華なものばかり。
渋谷の下屋敷を出発した行列の先頭がすでに江戸城に着いたあとも、後尾の者は進発しておらず、諸道具を運ぶだけで2か月余もかかったと、江戸っ子の評判であったという。
しかし、本来の目的である慶喜擁立工作は逆風を受けていた。まず、一橋派の盟主阿部正弘が6月17日に病死した。37歳。
翌5年2月、篤姫は、「家定や大奥が、みな一同慶喜に反対している」と、大奥の壁の厚さを斉彬に伝えている。
4月、南紀派の彦根藩主の井伊直弼が大老に就任、6月19日には日米修交通商条約が調印され、遂に25日、慶福を将軍継嗣とする皆公表された。
7月6日、かねて病弱であった夫の家定が死亡した。35歳だった。夫婦の交わりのない、たった1年7か月足らずの結婚生活であった。その10日後に上京直前の斉彬(49歳)が鹿児島で急逝(きゅうせい)した。以後、全国に安政の大獄が吹き荒れ、24歳の若さで落飾した天璋院はひたすら大奥(推計1000人)を束ねることに専念しなければならなかった。

<静寛院との仲>
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が暗殺され(桜田門外の変)、状況が変化した。
文久2年(1862年)、公と武の融和のため、孝明天皇の妹、和宮が第14代将軍家茂(いえもち)(慶福)に降嫁(こうか)することになったのである。28歳の若い天璋院は、姑として、自分より更に11歳若い和宮を御台所として迎え入れねばならなかった。
もともと許嫁(いいなずけ)のあった和宮であるから、気乗りしない政略結婚でもあった。大奥でも江戸風に馴染もうとはせず、自らを「宮様」と呼ばせ、実母(観行院)や女官等80人もの供も御所の風をなびかせたので、天璋院付きの女中260人と和宮付きの女中280人は、ことごとにいがみあった。
天璋院は和宮との初対面のとき、自分は上段で布団の上に坐り、下段の敷物なしに和宮を坐らせたが、和宮も京から姑への土産に「天璋院へ」と、敬称なしに宛名を書いている。世に姑と嫁の確執として有名だが、勝海舟は、2人の関係を『旧事諮問録(くじしもんろく)』で、「和宮は天璋院と初め仲が悪くてね。なアに、お付きのせいよ」と回顧している。
慶応2年(1868年)、第2次長州征伐のさなか、将軍家茂が大阪城で急死した。21歳。今度は和宮が静寛院と号し、夫と同年齢の若さで御台所と対する立場となった。
天璋院は、初め慶喜擁立派であったが、次第に家茂に親しみを感じ、家茂の上洛中は、和宮と揃って芝増上寺にお百度参りするほどであった。
天璋院と静寛院の2人も、慶喜ぎらいでは共通している。兵庫開港の勅許が下り、諸外国の外交官たちとパーティーを開いている慶喜に対して、静寛院は、攘夷鎖国の催促を繰り返し、あわせて、天璋院への孝養を尽くすよう促している。
また海舟は言う。「天璋院は仕舞迄(しまいまで)慶喜が嫌いサ。それに慶喜が、女の方は迚(とて)も何もわかりやしないといったのが、ツーンと直(じ)きに奥へ聞えて居るからネ」(『勝舟座談』)。
慶応3年10月、慶喜は大政を朝廷に奉還したが、討幕派の薩摩藩は藩邸に囲った浪士たちに市中で挑発行動をとらせた。たまりかねた幕府は、12月25日藩邸に焼き討ちを掛けた。
明けて慶応4年の正月、この報が大阪城に伝わると、3日に鳥羽・伏見において旧幕軍と薩長軍とが全面衝突し、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。緒戦は錦旗(きんき)を掲げる薩長軍の圧勝。
ところが6日、慶喜は大阪城を脱出し江戸へ帰ってしまった。負けた、という。フランスの軍服姿の慶喜に、天璋院も静寛院も会おうとしなかったが、慶喜が借着(かりぎ)姿に変えたため、やっと面会が実現した。このとき慶喜から「薩摩藩から発砲された」と打ち明けられた天璋院は、苦しかったに違いあるまい。
実家の薩摩藩からの使者が、天璋院の身柄を引き取ろうと江戸城に現れると、嫁ぎ先の家がすなわち終焉(しゅうえん)の地だと覚悟を決めている天璋院は、きっぱりと拒絶。実家へ帰ることを勧められた天璋院は、懐剣を手にして、「自分に、何の落度があって帰らねばならぬのか」と言ったとか、財政難に苦しむ幕府へ実家から援助の申し出があったとき断ったとか伝えられるのも、このときの天璋院の覚悟の強さを示している。

<江戸城無血開城と晩年>
天璋院は、東征してくる官軍の「薩州隊長人々」にたいし、「命にかえて徳川家の存続を」と嘆願書を提出している。かつて自分の入輿の世話をした西郷吉之助に望みを託したのであろう。
その西郷に海舟が江戸城開城談判の席で会ったとき、最初に静寛院のことを持ち出している。「一朝不測の変生ぜばその御無事は保障しがたい」という勝舟の言葉には、天璋院のことも含まれていたのであろう。
実は海舟は、この2人を守り抜く決心を一橋家を継いだ茂栄(しげはる)に示していたから、西郷への脅しに過ぎないのだが、談判は成立し、江戸城は無血開城された。
天璋院は、一橋邸から紀州邸、尾張外山屋敷と、江戸から東京に変わった騒乱のなかを転々とし、明治10年(1877年)、やっと千駄ヶ谷(渋谷区)に落ち着いた。
また、この年、慶応4年(1868年)の閏(うるう)4月29日、6歳の田安亀之助に徳川家名の相続を命ずる朝旨(ちょうし)があり、翌月、亀之助は家達(いえさと)と改め駿河(するが)70万石の藩主となった。そしてその若い亀之助の訓育に全精力を注いでいたのが天璋院であった。
明治10年、家達は英国留学に旅立ち、天璋院はひとまず自分の任が終わったと感じたであろう。同13年、箱根・熱海の湯治に出掛けている。19歳に鹿児島を旅立ってから初めての旅行は1か月余の私的なものであった。
同年、留学延期を願い出てエジンバラからロンドンに移転した家達は、天璋院へ英国の品々を贈った。
同15年10月、帰国した立派な家達の姿を見届けた天璋院は、翌年11月20日に息を引き取った。49歳。墓所は、寛永寺、家定の墓に並んで眠っている。
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 楼主| 发表于 2007-12-26 11:10 | 显示全部楼层
关于小松的讲的更多……分前后篇 ORZ,我就不知道为什么了
不过日本历史上小松带刀是蛮被忽略的幕末英雄,大河应该会写的蛮详细的
另外,大河至今还未公布小松侧室的扮演者的人选
应该是位若手美人的说……

第3回 ―小松帯刀について(前半)―   

「小松帯刀の功績」
薩摩藩が明治維新という全国を動かすような歴史の主役を演じることができたのは何故だろうか。
一つには、鎖国の時代に国際都市国家「琉球」を持ち、ペリーの浦賀来航より9年早く外圧に見舞われるような地理的環境にあったこと、次に他藩が羨むような豊富な人材を郷中(ごじゅう)教育のもとに輩出させたことがあげられる。そして天保改革の生んだ資金の力によるといってよいが、その中でも媒介となる不可欠の人物がいることを忘れてはならない。小松帯刀清廉である。薩摩のような大藩では、開明的君主と下級改革派とが直接的に結びついて動くということは困難であった。島津斉彬と西郷隆盛との関係はむしろ異例であり、また非常に短期間に過ぎた。薩摩藩における維新史の解明は、下級改革派の動向をふまえながら、藩政を指導していった権力中枢の現実の動きにもっと注目しなければならない。研究史を繙(ひもと)いても、たとえば島津久光に対する「頑迷(がんめい)」とかいった不当に過少な評価や、小松帯刀に対する単なるパイプ役といった考え方は見直されてよいのではなかろうか。「国父」たる島津久光に関してはさすがにいくつかの伝記があるが、小松に関しては、坂田長愛氏が昭和4年に編纂(へんさん)した小伝が最近やっと県の史料集として刊行されたに過ぎない。本格的な伝記になると、瀬野富吉氏の『幻の宰相・小松帯刀伝』(昭和61年)をおいて他にない。
この本は、小松を通して維新の激動を描いたはじめての労作である。本書により、私達は小松の演じた役割の大きさに気づくばかりか、その心優しい人柄に魅力を感じるようになると思う。「小松帯刀こそ大政奉還・明治維新の大功労者であったばかりでなく、科学技術をとり入れ、留学生を派遣し、商工業をおこし、大商船隊による交易の利潤で、教育・経済・軍備を充実し、今日の経済大国日本と外交の基礎を築いた大恩人である」と著者は説く。とすれば、斉彬の遺志を継いだのは小松である。たしかに藩内守旧派に対抗できる家柄は、吉利郷(よしとしごう)一所持の小松家や日置郷一所持の桂久武家などしかいなかった。斉彬亡きあと、西郷・大久保の働きは小松の存在を抜きにしては考えられない。小松は、大久保利通等誠忠組の藩政進出の推進役であり、首領と目されている。小松を島津久光と誠忠組とのパイプ役とだけみるのではなく、むしろ小松こそ維新の演出家である。西郷・大久保といえど、当時の下級改革派は、郷中という狭い郷党的枠組から完全に自由ではあり得なかっただろうし、その点、小松はその先見力、決断力、指導力において抜群であった。京都の小松屋敷は志士談合の場となり、薩長同盟が生まれた。全国的に攘夷が叫ばれる中で、薩英戦争後、自ら長崎に出張し、グラバーと交渉し、パークス英公使の薩摩招聘を実現させた手腕は見事である。鹿児島では、小松が応接の中心となった。その後もグラバーとの親交は続き、戊辰戦争の最有力艦春日丸の購入にも役立った。維新後は、数少ない西洋事情通の外交官として、フランス艦員刺殺事件の処理や外債整理にあたり、新生政府の外交的基礎を築いている。
さて、私が小松に魅かれる理由は、小松が薩摩にあっては出色の経済人であったからである。小松は城代家老として藩政の最高位にありながら、政治・経済・外交・教育・軍事の諸掛りを兼務していたが、何よりもお勝手方掛りとして予算と金繰りを直接担当していた。元来、薩摩藩は、低劣な農業生産力をカバーするために貿易立国を国是としてきた観がある。天下第二の大藩であるからには、相応の奉公を幕府に対して果たす職務がある。そのための資金を即座に調達するために必然的にとられた政策が徹底した専売制と海運体制であった。このような薩摩藩の貿易依存体制を私は比喩的に「総合商社サツマ」と呼んでいる。社長は歴代の島津の殿様、経営者であるからには「島津に馬鹿殿なし」といわれるようでなければ会社は潰れる。専務取締役は、勝手方、つまり財政担当の家老であり、第一線の社員は、浜崎太平次や河南源兵衛など領内主要港を本拠として全国に支店網を持つ海の豪商たちである。事実、薩摩藩を支えた家老はいずれも勝手方の家老であった。上野寛永寺の本堂修築工事の総奉行で吉利領主の禰寝清雄(ねじめきよお)、木曾川治水工事の総奉行平田靱負(ひらたゆきえ)、日本一の貧乏藩から日本一の富裕藩へ起死回生の財政改革を断行した調所広郷(ずしょひろさと)など、刀を算盤に持ちかえての奉公であった。
禰寝家改め小松家の後継者小松帯刀もこのような伝統的経済官僚の系譜につながる人物である。28歳の若き家老小松は、大火で被災し肥後藩に借金の申し出を断られた人吉相良藩の申し込みに応じ、五千両もの大金(「新銭」)を独断で融通するほどの大胆さを発揮している。この背景に文久2年(1862年)から大々的に行われた藩営ニセ金作りがあったことを考えるとき一層興味深いものがある。このニセ金工場こそ、篤姫の磯御殿(下屋敷)であった。

坂本藤良氏はその著『幕末維新の経済人脈』(中公新書、昭和59年刊)の中で、その筆頭に坂本龍馬をあげているが、実は龍馬の亀山社中、海援隊の生みの親は小松である。幕末日本で、はじめて具体的に株式会社の発想を持ったのが誰かといえば、龍馬がそれに値すると思うが、それも龍馬の独壇場ではあるまい。小松はユダヤの若き商人グラバーと対等に交渉し、「兵庫開港の商法一変仕り候はば、いずれコンベニー御座なく候ては、本朝の膏油(こうゆ)(金目になる物)を彼(外国)に吸われる様の仕儀、これ無きよう」にという寺島宗則の進言を容れて、大和交易コンパニーという会社を組織している。また、「そろばんドック」と呼ばれた長崎の小菅修船所は小松の貿易商社とグラバーとの共同出資であった。坂本藤良氏によれば、「株式会社とは、多数の人が資金を出し合って、出資金の範囲での『有限責任』を持ち、出資金額に応じて利益を配分する組織」であり、この会社システムの考え方をはじめて日本に導入したのが土佐出身のジョン万次郎であり、それが龍馬の構想の中にうけつがれたとされている。ちなみに漂民ジョン万次郎から最初に海外の事情を聴取したのは島津斉彬であり、また後に万次郎は、薩摩藩の開成所の教授として招聘されている。もちろん大河ドラマの中でも登場する。開成所は、1864年小松や桂久武が中心になって設立した洋学の学校であり、この中から多くの藩費留学生がイギリスへ送り出されている。開成所の教授陣には、出羽の大富豪本間家の一族である本間郡兵衛も名を連ねている。本間は、大和交易コンパニー設立の資金募集のため出羽に帰ったところを薩摩のスパイと誤解され毒殺されたという。小松の構想した会社組織は、彼が藩の勝手方掛りであっただけに、藩内の豪商をその手先にした大がかりなスケールをもっており、かなりの実利をあげたと思われる。
小松は、藩の門閥、重鎮でありながら近代的経営感覚に近いものを持ち得た点が注目される。龍馬と帯刀の商社活動を抜きにしては明治維新の志士の結集は語れないと思う。
龍馬と帯刀には、共通点が多い。二人共、篤姫と同じ天保6年(1835年)生まれで、若死であったが、二人共おしゃれで、金銭面では細かかったようである。小松は藩の重役でありながら病いが理由とはいえ月代を剃らずに総髪にすることを願い出で許可されている。金銭と容姿と女性のことを口にすることを極度に忌み嫌う郷中教育の風土の中に小松のような人間を見つけると救われるような気分になる。龍馬の愛人お龍を藩の軍艦に乗せて、薩摩に招き、霧島温泉でハネムーンをさせるとは、よく質実剛健の薩摩士風が許したものである。龍馬とお龍、帯刀とお琴との京都での出会いもほほえましい。小松は、旅先にあっても筆まめに逐一仕事のことを7歳年上の国許の正妻お近に便りしているが、龍馬と乙女姉との関係のごとくである。龍馬とお龍が湯治に遊んだ霧島は、小松がよく使った湯治場であった。
小松は重病のため戊辰戦争の指揮をとることはなかったが、国元にあって討幕出兵の藩論をまとめるのに大苦労したはずである。出兵に関しては自重論が強かっただけに、藩内に小松が残っていたことは、重要である。維新後は、自ら私領返上するなど下級改革派の藩政改革を助けている。小松は藩内での改革取りまとめに不可欠の人であっただけに、明治3年に逝ったことは惜しまれる。小松ありせば、鹿児島県民が真二つに割れて闘った西南戦争の悲劇もあるいは回避されていたかもしれないと思うのは妄想であろうか。

「小松とはどのような人物か。」
簡単に言えば、小松なくして西郷・大久保の活躍は無く、従って薩摩藩による明治維新は無かった。その理由は、維新期に小松が藩内最上級の門閥出身で、城代家老という藩主名代の役職にいたからである。その業績は薩長同盟と大政奉還の二つをあげれば十分であろう。さらに、薩長の縁をとりもった土佐の坂本龍馬の長崎亀山社中の活動の背後に小松の援助があった。
小松の業績として、洋学校の開成所の設置、英国留学生の派遣、英国公使パークスの薩摩招へい、大和交易コンパニーの設立、薩土盟約、小御所会議における王政復古の大号令等、枚挙に遑(いとま)がない。維新後は、数少ない西洋事情通の外交官として、フランス艦員刺殺事件の処理や外債整理にあたり、新生政府の外交的基礎を築いている。もちろん全てが小松一人の力によるものではないが、藩主島津忠義、国父島津久光に代わって全ての最高責任者を勤めたのは、小松である。なぜ小松の功績が大きいかといえば、彼が一所持(いっしょもち)という領主階級でありながら、いちはやく公武合体運動から尊王倒幕、開国の開明路線を推進したからである。小松は藩の実権を持つ久光と大久保らの下級改革派の間に立ち、挙藩体制を構築することに尽力したのである。明治維新には草莽(そうもう)の志士の連携による倒幕の可能性はあったが、寺田屋事件、池田屋事件、天誅組の挙兵、生野の変などで、文久3年(1863年)の段階で壊滅状態であり、翌元治元年の水戸藩の天狗党の乱が最後であったといってよい。幕府という巨大な体制を倒すには、草莽の志士たちによる蹶起(けっき)をバネにしながらも、やはり挙藩体制と薩長雄藩連合によるしかなかった。薩長同盟の会談は京都の小松屋敷でもたれたが、このとき小松と坂本龍馬は31歳、木戸孝允は33歳、大久保36歳、西郷39歳のいずれも30歳台の壮年である。しかし、小松だけは、年下といえども、もともと吉利郷(よしとしごう)のれっきとした領主であった。大政奉還後の慶応3年11月、倒幕のための藩主忠義率兵上京が決定したのは、小松クラスの門閥が同意したからである。この時の決断は大変な冒険であったが、鳥羽伏見の初戦において、薩長軍は3倍の兵力を持つ旧幕府軍に予想以上の大勝をおさめた。明治2年5月函館五稜郭の戦いで戊辰戦争が終わるが、その間小松は改革の手を緩めなかった。同年2月、小松は自らの領地と家格の返還を藩に申し出、諸侯に先駆けて廃藩置県のため版籍奉還の範を示した。版籍奉還が全国に施行されたのは4か月後の同年6月であった。小松自身はこの頃、重病のため戊辰戦争の指揮をとることはなかったが、国元にあって倒幕出兵の藩論をまとめるのに苦労し、また維新後は自ら私領を返上するなど、終始、下級改革派を助けている。小松は藩内での改革取りまとめに不可欠の人であっただけに、明治3年に逝ったことが惜しまれる。35歳であった。
坂本龍馬がお龍を愛したように小松も京都のお琴を愛した。小松は寺田屋で負傷した龍馬と愛人お龍を藩の軍艦に乗せ、薩摩に招き、自らの原良(はらら)別邸で接待し、霧島温泉でハネムーンをさせている。共に若年で散った2人であるが、小松の人気の秘密は稀に見る貴公子然とした端麗な容姿にある。
今でいえば「ヨカニセ」であろう。小松と親交のあったイギリス外交官のアーネスト・サトウは次のように述べている。
「小松は、私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度に優れ、それに友情が厚く、その点で人々に傑出していた。顔の色が普通よりきれいだったが、口が大きいのが美貌を損なっていた。」
最後の部分は失礼だと思うが、好男子ぶりは写真が証明している。また、慶応3年(1867年)大阪で開かれたサトウの昼食会での小松の様子を、
「彼は、脂肪の多い肝のパテやビールを美味そうにばくつき、飲み干し、しまいには、あまりに上機嫌になりすぎたので、この宿舎には徳川の家臣も大勢いることとて、うっかり秘密を漏らしはせぬか、はらはらした。」と訳している。サトウが心配するほどの豪快な飲みっぷりであったようだ。小松こそ「薩摩の快男児」であった。
なお、薩摩藩では他藩と違って、二男、三男でも藩の勤めにつくことができた。そのため三男であった肝付尚五郎(小松帯刀)も早くからその才能を認められたのであろう。


第3回 ―小松帯刀について(後半)―   

「小松帯刀を支えた二人の女性」
肝付兼善の三男として生まれた尚五郎(なおごろう)は、22歳のとき島津斉彬のお声がかりで小松家の養子となる。養父にあたる小松清猷(きよみち)は、斉彬によって琉球への軍事奉行として派遣されるがそのまま客死してしまう。清猷が将来を嘱望された人物であっただけに斉彬は責任を感じ、優秀な人材に小松家を継がせることに心を砕いた。帯刀は清猷の妹お近の婿になる形で小松家に入る。お近は小松より七つ年上。跡継ぎのいないまま琉球にいく兄のため、家に残されていたと思われる。
帯刀と名も改めた尚五郎は、その後維新の動きと深く関わっていく。京都、長崎と奔走し、鹿児島にはなかなかいられない。国許のお近には、それはそれは優しい手紙を書き送っているのだが、御多分にもれず帯刀のそばにも世話をする女性がいた。琴子である。幕末の志士とそれを支える芸者の例は枚挙に暇がないが、帯刀は所帯を持つことはかなわない。
薩長同盟が取り交わされたのも京都の帯刀の屋敷。同盟に関わった坂本龍馬がその直後、伏見の寺田屋で襲撃されたのをかくまい、そのまま鹿児島へ渡る手はずを整えたのも帯刀である。自身の湯治場である霧島への旅行に向かわせる前には城下のはずれ、原良の屋敷を坂本とお龍に提供している。家のため、藩のため、国のため、守るべきものをたくさん抱えざるを得なかった帯刀。坂本龍馬とお龍のように、好いたもの同士が片寄せあう姿はまぶしく映っていたに違いない。
大政奉還がなり版籍奉還が断行されるに至って、帯刀は真っ先に自身の領地を藩に返還した。これに習い薩摩は朝廷に版籍を奉還、諸藩もこれに従った。相当な反発が予想されたこの大事業の口火を切ったのは実は帯刀だったのだが、果たして養子の帯刀がこれを言い出すことができただろうか。想像の域を出ないが、家も領地ももう返してしまいなさい、そう言えたのは国もとで帯刀の帰りを待っていたお近だけではなかったろうかと思う。
帯刀は明治3年に死去。墓は当初大坂に作られ明治9年現在の吉利(よしとし)に移された。その隣りにはお近が眠り、そしてその墓地内には生前のお近の計らいによって、琴子の墓も移されている。何もかもが自由にならなかった時代。帯刀の気持ちも何もかも知っていたお近。3つの墓を見ながらいろいろな思いがこみ上げてくる。

「独行の人・小松帯刀」
小松帯刀は肝付家の三男として天保6(1835)年に生まれた。一所持(いっしょもち)の三男であるからいずれは同格以上の家格の養子となる定めであった。ここに「小松帯刀幼若略歴」という史料が残されているのだが、小松の性格を知る上で大変興味深い。
「幼若略歴」によれば、幼少より儒学(じゅがく)を横山安之丞に学んでいる。造士館の教授で、後に集議院の門前で明治政府の腐敗に憤り自決する横山安武の父親、藩内一の学者であった。15歳の頃から本気で学問を志し、昼夜を問わず勉学に励んだ。かつ弟3人にも教え、御付の守役が勉強を教える必要がないほどであった。ところが17歳の頃から病気がちとなり、母親が勉強のしすぎである、と大変心配した。そこで小松は琵琶を弾き始めたのである。そして今度は琵琶にのめりこんでしまった。やはり昼夜を問わない熱中ぶりに執事が心配し、先祖の例を引いて琵琶におぼれるものではないと進言した。すると小松は涙を流して琵琶の糸をかなぐり捨てて、二度と琵琶を手にすることはなかった。これらの話から何事にも没頭する小松の人柄が見てとれる。
またこの頃から若手下級藩士の集まりである精忠組の面々とも交流するようになる。小松くらいの家格であると供を連れるのが通常であるが、一向に構わず一人で出掛けていく。そして保養のために温泉に浸っているときも身分を明かさず、平たく民・百姓と付きあうことを心掛けた。このような「独行」が小松に多くの情報を与えた。
若くして斉彬の目に留まり、また藩主が忠義の時代になって大任を任せられる帯刀だが、それは学問に秀でていたことはもちろん、多くの人の意見を聞くことのできる耳を持ち、それを総合して決断する能力に長けていたからだと思われる。
今、苗代川は沈家の床の間に、古式ゆかしい立派な薩摩琵琶がある。沈家の伝承によれば小松帯刀愛用の薩摩琵琶だという。小松が亡くなったのは明治3年、そのころ薩摩焼を世界に向けて発信し絶賛を浴びていたのが、12代の沈壽官である。おそらく小松から沈壽官に渡ったものであろう。

「薩摩琵琶を愛した小松帯刀」
小松は幕末薩摩藩の城代家老、篤姫は第13代将軍家徳川家定の御台所。二人は幼なじみとして鹿児島に育ちながら、敵対する立場にたたされます。幕府は倒れますが、篤姫の決死の嘆願書が奉功し、江戸城は無血開城。その結果、徳川家は存続することができました。この間、薩摩藩を代表して薩長同盟、大政奉還を実現した小松は明治3年大坂で客死しました(36歳)。「小松なくして維新はない」といってもよいほど維新の功労は大きく、坂本龍馬がもっとも頼りとした人材でした。
28歳で薩摩藩の家老となり、一身に重責を担った若き宰相は、少年のころから異才ぶりを発揮しています。小松は家格一所持の門閥、肝付家の三男として生まれ、肝付尚五郎といいました。23歳のときに、小松家の当主清猷が琉球で客死したため、島津斉彬のはからいで小松家の養子となる。「小松帯刀幼若略歴」は、「十三四のころに至り、才知は年と共に長じ、父母に事る孝なる」と記しています。さらに、「儒学を幼少より横山安之丞(藩校造士館の教員)に学び、十五の冬ごろより学文の務むべきを悟り、真に志学の精神発起し、勤学昼夜怠らず、いったん寝所に入り、再び起きて通夜勉強し」とあるように、その猛勉強ぶりは尋常ではなかったようです。また、歌道にも心がけて、弟3人にもよく教えていました。
17歳のころから病気がちとなり、保養のために琵琶を弾き始めること1年半にして上達しました。ところが帯刀はこの琵琶の面白さに熱中し、昼夜をおかず数度も琵琶を弾くほど虜になります。「過ぎたるは及ばざるがごとし」のたとえもありますが、執事が肝付家の先祖の苦戦の故事を伝えると、小松は決心するところあり、以来ぴたっと琵琶を弾かなくなりました。「琵琶の糸をかなぐり捨て、棚の角に押し込み、再び琵琶を取られしを見ず」という徹底ぶりでした。
琵琶は下級武士の間でも人気があり薩摩の青少年の憧れの的でしたが、人の上に立たねばならない門閥の帯刀は、琵琶におぼれるわけにはいかなかったのでしょう。
現在、県下にこの小松家から譲られたという琵琶が二つ残っています。一つは薩摩焼陶工の沈壽官家、もう一つは志布志市在住の医師安田家です。沈家のものはかつて苗代川のお仮屋であった屋敷の床の間に飾られているほど立派なものです。名人といわれた12代沈壽官は、小松より11歳年上、同時代の人ですから、参勤交代で宿泊したときに譲られたものかもしれません。しかし、なぜ2つも小松の琵琶が残っているのでしょうか。小松は一度捨てた琵琶でしたが、後年になって再び琵琶を求めて、超多忙な自らを琵琶を弾ずることにより慰めていたのではないでしょうか。私には京都妻のお琴さんと薩摩琵琶を弾いている姿が偲ばれてなりません。

「島津斉彬・篤姫・小松帯刀を結ぶもの」
茶道は、村田珠光が創始し、武野紹鴎が洗練し、千利休が大成したわが国の伝統文化である。薩摩でも、島津義弘は千利休から手ほどきを受けており、歴代の藩主も茶道の心得があった。寛永時代、初代藩主家久は、薩摩藩邸に3代将軍徳川家光を迎え、名器「平野肩衝(かたつき)」でもてなしている。島津氏も、利休門下の古田織部・細川忠興らと並ぶ大名茶人の一人であった。第2代藩主光久が設けた別邸仙巌園も「磯御茶屋」「御茶屋御殿」であった。第10代藩主斉興が天保6(1835)年に設けた玉里御殿には回遊式の庭園と長屋門が往時のまま残されているが、よほど風流な茶御殿であったらしい。幕末の鶴丸城本丸の指図には「御数寄屋(おすきや)蔵」「茶湯所」「御茶道通り」「外御庭茶屋」が記されている。また藩校造士館にも茶室が設けられていたことをみると、茶の湯は茶道と呼ばれるように人間形成の修行の道でもあった。天保改革を成功させた調所笑左ヱ門も茶坊主のとき第8代藩主重豪にその才能を認められている。調所は、苗代川の薩摩焼再興の恩人でもある。
茶の湯は風流な遊びとして社交儀礼の場として機能している。幕末の城代家老小松帯刀(1835~1870)が坂本龍馬とお龍を招いた城下原良の別荘は茶室であった。今は、茶室の手摺りに残るわずかな金箔だけが、当時の面影を伝えている。小松家のような一所持(吉利郷の領主)の重臣や島津御一門四家(加治木・重富・垂水・今和泉家)の万石以上の門閥家そして琉球国の王子との交際に茶の湯は欠かせない儀礼であった。
篤姫(1835~1883)は嘉永6(1853)年、斉彬の娘として江戸へ赴き、安政3(1856)年第13代将軍家定の御台所となり、江戸城大奥にはいっている。ドラマでは天保6(1835)年同じ年生まれの篤姫と帯刀、二人の人生を経糸として紡がれることになるが、二人とも斉彬が抜擢した人物である。
肝付家の三男であった尚五郎は、琉球赴任中に客死した小松清猷の後継として斉彬のお声がかりで安政3(1856)年小松家の当主となった。篤姫は、将軍後継に一橋慶喜を推すという大任を託されて安政3(1856)年徳川家へ嫁した。しかし安政5(1858)年、夫家定と養父斉彬が亡くなり、天璋院となった篤姫は、大奥1200人を束ねながら生涯徳川本家を守り通した。一方、帯刀は倒幕を掲げる薩摩藩の代表となっていた。
門閥として18年間同じ城下で育った篤姫と帯刀、二人の接点を示す史料は残されていない。しかし、二人が敬愛する斉彬を通じて二人は運命の糸で結ばれていたように思えてならない。言葉なくして心を伝えるもの、それは茶の湯である。点前、すなわち茶室での美しい所作を通して、人は心を通わすのであろう。芳賀幸四郎氏によれば、「真の茶道なるものは、社交の儀礼を兼ねた風流な遊び、洗練された総合的な生活芸術および人間形成の道、という三足がよく均衡のとれている鼎にもたとえられる」という。三足の鼎が私には幕末維新を動かした薩摩の斉彬・篤姫・帯刀であったような気がする。(原口泉「かごしま銘茶紀行」『玉手箱』)
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白金长老

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发表于 2007-12-26 16:29 | 显示全部楼层
穿越的发现原来就是第一部大奥……
但是看过预告觉得第一部分好严肃啊……估计我这种喜欢宫闱秘话的要到后面才会看得比较起劲了。。。
那么就是AOI=美穗。。。
EITA=?
大奥里笃子的情人好像不是小松嘛。。。
还是他们俩很清白我被咱们的清宫剧给洗太多脑思维定势鸟……|||

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黄金长老

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发表于 2007-12-26 16:46 | 显示全部楼层
看過義經後就不再對大河劇害怕了
反而有種更加想了解當時歷史的感覺~
所以這部我也很期待
特別又有我一直很欣賞的小葵!她的純情閃耀真的很好看

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新手上路

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发表于 2007-12-26 18:29 | 显示全部楼层
咿,这部都是我爱的人哪,小葵 !!!!瑛太!!!!!堺雅人!!!!

夏天还有小玉,maki,俺家翔太!!!!!
实在是华丽的狠哪!!
虽然,那个一年是长了点儿,而且俺对这历史是一窍不通....

但是,俺决定追鸟~切,不就一年么ToT...有啥嘞!

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社区元老

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发表于 2007-12-26 22:04 | 显示全部楼层
这是我继《新选组》之后决定追看的第二部大河剧了,当初看《新选组》的时候我曾经怀疑自己是否能坚持追完,不过事实相反,一集不拉的看完了,而且觉得大河剧还是蛮不错的。这次的《笃姬》我更是期待,主要原因是因为里面有很多自己喜欢的演员(瑛太、玉木宏、松田翔太、掘北真希),也希望自己能一直追下去。

PS:本来前两天自己就想开这个《笃姬》的讨论帖的,不过考虑到自己找资源的水平,还是没有付诸于行动。前两天我就在想既然有瑛太,猫大应该会开帖的,可是迟迟没有看到这个帖子,还苦于没有地方讨论呢。终于今天发现猫大开帖了,虽然跟帖有些迟,不过以后可以常来这儿逛逛喽!

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 楼主| 发表于 2007-12-27 21:01 | 显示全部楼层

                               
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nhk用电车给笃姬宣传……
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发表于 2007-12-27 21:08 | 显示全部楼层
日本广告就是强啊~

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青铜长老

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发表于 2007-12-27 21:43 | 显示全部楼层
咬咬牙
开始追剧生涯,话说第一次追aoi的剧>.<
aoi以后多演drama吧
一个一个偶像 都不外如此 沉迷过的偶像 一个个消失

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 楼主| 发表于 2007-12-28 16:04 | 显示全部楼层
yahoo做了笃姬的主题网页
http://tv.yahoo.co.jp/tv_show/nhk/atsuhime/index.html

然后这里有大家的定妆照,某人照的还不赖嘛(看顺眼了咩)
http://tv.yahoo.co.jp/tv_show/nhk/atsuhime/cast/index.html
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