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長崎・丸山と呼ばれる花街の芸妓(げいこ)。三味線や琴、踊りが得意で才色兼備のお元は龍馬がとくにひいきにした女性で、龍馬はお元にいつも酒の相手をさせていたと言う。龍馬と後藤象二郎が歴史的な和解をした会談に同席していたとも言われる。
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土佐藩北川郷の大庄屋の長男。土佐勤王党に参加するが、勤王党への弾圧が激しくなり、脱藩して長州へと逃れる。三条実美らの警護をしながら、長州と薩摩の和解のために龍馬とともに奔走する。陸援隊を組織し、挙兵討幕の機を待つも、京・近江屋で龍馬と会談中に何者かに襲われ、絶命する。
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紀州藩士。勝海舟の神戸海軍塾(勝塾)で龍馬と知り合い、塾閉鎖後も龍馬に従い長崎で亀山社中に参加する。社中の会計担当を任されていた。長崎の豪商・大浦慶は借金の担保に陸奥を求めたとも言われる。後に明治政府の外務大臣となり不平等条約の改正を実現した。
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土佐藩下士の家に生まれる。土佐勤王党の結成に尽力するが、保守的な土佐藩を脱藩し、長州の攘夷(じょうい)運動に参加する。下関で龍馬と再会し、亀山社中に加わり薩長同盟実現のために奔走する。しかし、社中の帆船ワイルウェフ号の沈没により命を落とす。龍馬から弟のようにかわいがられていた。
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堂上公家(清華家)。攘夷(じょうい)派の公家の中心人物。16代目の山内豊範とはいとこ。文久2年、武市半平太を伴い将軍上洛・攘夷決行を求める勅使として江戸へ向かう。八・一八の政変により朝廷を追われ長州に下る。岩倉具視と通じ、王政復古を画策する。明治新政府の首脳として近代日本の発展に貢献した。
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土佐の郷士。剣、槍、砲の武術にすぐれ、「健脚馬に過ぐ」とうわさされるほどだった。剣術は日根野弁治に学び、皆伝の腕前。武市半平太が結成した土佐勤王党に参加し、同士の安岡嘉助、大石団蔵とともに土佐藩参政・吉田東洋を暗殺した。その後、天誅組の挙兵に加わるが、狙撃されて戦死した。
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土佐藩郷士・高芝玄馬の次女、岩崎弥太郎の妻。喜勢は幼いときに父を亡くしたために、父の弟である高芝小七郎に養われた。文久2年、17歳の時、29歳の弥太郎と結婚する。養子を含めて5人の男子と5人の女子を育てた。
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